蜘蛛の糸をのぼれば 極度のあがり症が治らない人へ 治った者からエールと治し方を書いていくブログ

幣ブログ管理人のカンダタです。 【蜘蛛の糸をのぼれば】にようこそ! 極度のあがり症がどうしても治らない人の数は予想を遥かに超えていた! しかしこの弱点を克服できないと大変なことになっていきます! 僕がどんだけ大変な思いをしてきたか! だからこのブログに体験談や克服方法を書いていきます!

カンダタの極度のあがり症の体験談 大学生 あらゆる治療法や治し方を模索 それでも治らない!

極度のあがり症が治らない原因と治った体験談ブログ

どんな治療法もあがり症の悪化を食い止められなかった


大学生(T T;)
  精神科、ヒプノセラピー催眠療法)、本、治らないままSADが悪化していく

どうにか大学に通えた。ずーっと成績が悪かった僕も、受験の時だけは頑張った。
一人で学習するから、人は気にしなくていいのだ。

そのかわり、受験の時、緊張して落ち着かなかった。大学に入ってからも、一番の気がかりは会話、人前での発表につきた。大きな大学で、人数もたくさんいるので、大人数生の授業が多いと聞いていたため、ほっとしていた。
よくさぼれることも、うれしかった。でも、そんなことは世間が許さなかった。

 

外国語をとらなくちゃいけない。外国語は少人数制だった。しかも毎回発表する。おじけづいた。
そんな形式を受けないように受けないようにしっかりと発表をさせられない授業を選ぼうと思った。
でも、どれがその発表しない形式なのかわからなかったから、運だった。

いっそのこと、講師に、自分が発表が大の苦手だと言うことういって、さされないようにしようかと思った。
また、友達を作ることを極力避けていた

一緒の授業に出たとき、自分の弱点(極度のあがり症)が暴露することが耐えられなかった。
弱点がない自分という存在で、友達の前でいたかったから。

結局、英語・ドイツ語ともにさされる授業だった。毎日、その授業がある日は憂鬱だった。つっかえつっかえ、周りからおかしいと思われながらも、当てられた日は人前で話したが、終わったら泣きそうだった

それをどうしても避けるために、精神科に通った。発表形式の授業があるとわかったときに、それまでに良くなろうと思ったから。

京都にある精神科に通ったが、結果は芳しくなかった。医者の事務的な態度に違和感を覚えた。また受付の女も感じが悪かった。
最初に通ったカウンセラーはとてもやさしかったから、そのギャップがよけい落ち込ませた。

抗不安薬を飲んでも、あいかわらずあがり、緊張をし、しかも頭がぼーっとして眠くて眠くてしょうがなかった
体質があるからと言われたが、眠くなるのはとても嫌だった。

次々と新しい薬、また増やしたりして、様子を見ていたが、まったく変わる気配がないのに、僕は愕然とした。
抗不安薬を飲んでも極度のあがり症やSADに効果がないのは、やばいと思った。

医者が悪い? でも、出す薬は同じだし、こちらの都合(体質とかSADがあまりにひどすぎる)によるものだと考えてしまうと、未来が遠のいた感じがした。

本屋がよいの日々が始まった。大手書店に行き、いい治療法がないか探した。
様々な研究所・療法紹介・症状紹介の本があり、希望が出てきたのをよく覚えている。
これだけ本があるなら、突破口があるはず、と思った。

そこでヒプノセラピー催眠療法というものがあることに気づいた。それに期待を持ち、早速、極度のあがり症、吃音どもり克服ということを謳い文句にしているヒプノセラピー催眠療法)所に通い始めた。

どきどきした。見当が全くつかないし、それだけ期待もあった。そこでヒプノセラピー催眠療法)の残酷な事実に愕然とした。
僕は催眠に入れない体質だという。
また階段が一つはずされた。
ヒプノセラピー催眠療法)に通い始めてからそういわれたから、悔しかった。自分の体質にも腹が立った。

実は催眠状態はよっぽど深い状態にならないと意味がないらしい。催眠状態に入れる人も、ほんの少数だという。

もう一つ、ヒプノセラピー催眠療法)の施術はセラピストの実力が非常に重要だという。だから、腕利きのセラピストを見つければ、催眠に入れない僕でもいつか入れて、極度のあがり症やSADも解消するという期待はあった。


大学後半にはゼミがあった。これが一番おそれていたことだった。
研究の発表、討論会、わきあいあいとゼミの授業が行われる、そう考えると落ち込んだ。
いかに避けて通るか、対策をとりたかった。

でも、ゼミと卒論を突破しなくちゃ、卒業はできない。その前に何かしようと思った。
緊張しない話し方の本を読んだり、自己啓発の本、あがらない対策の本を読んだ。

でも、実際、人前でそれができなかった。僕の無意識がそうすることを妨げた。
圧倒的なあがってしまうという強迫観念が、どんなに本を読んで対策をとっても、襲いかかってきた。
もうそうなったら、僕は何にもできないで、極度のあがり症に打ちのめされ続けた

ゼミの中で強力目立たないようにしていた。目立たないようにしていたら、失敗したときも傷を浅くてすむ。
それに、ほっといてもらいたかった。

大学四年間も結局なんにもSADの症状は良くならないし、よけい緊張やあがり症が強まった。むしろSADが重くなった。


就職がこわかった。またこの致命的な弱点を抱えたまま、面接を受け(ここで落とされるのは明白だった)、かりに就職できたとしても、また会議が怖かった。
人と接しない仕事をしたかった。

裏街道しか歩めない自分が情けなく、腹立たしく、憂鬱だった。

就職しないように決めた。それは、就職試験を受け、面接の時、何にも喋ることがほとんどできなかったからだ。
しどろもどろの自分が悲しくなった。生きてはいけないと思った。

他の人も面接の時緊張していた。だけど、僕のは次元が違った。あがり症と一言で片づけられない、非常に重い神経症だった。

もう、緊張する場面になるとそういった神経回路にしかならないんだろう。
両親の手前、フリーター(今で言うとニート状態)になることは、心苦しかったが、どうしようもなかった。
両親も子供の頃はあんなに・・・・と言った感じで、グロッキー状態の僕を心配していた。

極度のあがり症やSADであり続けること、それは死(自殺)へのカウントダウンだった。

 

ニート、フリーター、プータロー時代へ

 

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